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    瀬戸内海

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    瀬戸内海(せとないかい Seto Inland Sea)とは、本州四国九州に挟まれた内海。山口県広島県岡山県兵庫県大阪府和歌山県香川県愛媛県徳島県福岡県大分県がそれぞれ海岸線をもつ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている。

    古来から、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。 気候瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。

    瀬戸内海 写真上は北東方向。左下に見える九州、中央に見える四国(島)、左中央から右上に見える本州にはさまれている

    目次

    [編集] 概要

    瀬戸内海の多島美、山口県周防大島町

    東西に450km、南北に15 - 55km、平均水深:37.3m、最大水深:105mの内海である瀬戸内海は複数の島嶼群で構成され、医師であり博物学者であったシーボルトを初めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen,1833年 - 1905年)の旅行記により世界中に紹介され、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である[1]

    また瀬戸内海は古来、豊かな生態系を持つことで知られ、現在でも天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリなどの海洋生物や、 アユホホジロザメを初めとする400 - 500種類を越す魚類が生息している。また現在の状況からは想像しがたいが、瀬戸内海はかつてクジラの一大生息地でもあった。コククジラセミクジラなどが多かったとされる。これらのクジラは捕鯨と汚染により瀬戸内海からはほぼ消え去ったが、他種のクジラならば現在でも稀に迷入することがある。

    [編集] 「瀬戸内海」の誕生

    瀬戸内海という概念が誕生したのは、江戸時代後期とされる。それまでは和泉灘や播磨灘、豊後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念が連なっているのみで、現在の瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していなかった。

    とはいうものの、江戸時代の「瀬戸内」は現在でいう「瀬戸内海」とは必ずしも重なっていない。1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記『海陸道順達日記』では尾道と下関の間を「瀬戸内」と呼んでいる。

    「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半には人口に膾炙していったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。

    日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。この中で小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。小西は「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、帝国議会に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて国立公園法が制定されたのは1931年で、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙霧島とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となった。

    [2]

    [編集] 瀬戸内海の地理

    [編集] 地形

    瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海である。平均水深は38メートルであるが、全体的な傾向としては東に行くほど浅くなっている。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されており、深いところでは水深454メートルもある(速吸瀬戸)。

    [編集] 強い潮流

    周防灘安芸灘の間にある大畠瀬戸の潮流。

    瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2メートル以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は一般に言って極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」である。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。

    [編集] 区分

    瀬戸内海は複数の海域で構成されている。

    『領海及び接続水域に関する法律』では東側から順に次に掲げる10区分された海域で構成されている。

    1. 紀伊水道
    2. 大阪湾
    3. 播磨灘
    4. 備讃瀬戸
    5. 備後灘
    6. 燧灘
    7. 安芸灘
    8. 広島湾
    9. 伊予灘
    10. 周防灘

    『瀬戸内海環境保全特別措置法』では前記10区分に次に示す海域を加えた計12区分で構成される。

    1. 豊後水道北部(宇和海)
    2. 響灘

    上記の12区分された個々の海域を示す明確な基線(境界線)は存在しない。

    [編集] 海域

    領海法による瀬戸内海の範囲。面積 1万9700 km²
    瀬戸内法と瀬戸内法施行令による瀬戸内海の範囲。面積 2万1827 km²

    瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり複数の法令で範囲が定義されている。

    以下の引用文は一部漢数字を算用数字に直すなどしている。

    領海及び接続水域に関する法律施行令(領海法施行令)第1条
    • 紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒, 東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒, 東経134度44分58秒)まで引いた線
    • 佐田岬灯台(北緯33度20分35秒, 東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分, 東経131度54分8秒)まで引いた線
    • 竹ノ子島台場鼻(北緯33度57分2秒, 東経130度52分18秒)から若松洞海湾口防波堤灯台(北緯33度56分28秒, 東経130度51分2秒)まで引いた線
    ※国際的にはこの範囲が瀬戸内海とみなされる。
    ※西端は関門海峡の西端である。関門海峡の全域と洞海湾は瀬戸内海に含まれる。
    瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)第2条第1項
    次に掲げる直線及び陸岸によつて囲まれた海面並びにこれに隣接する海面であつて政令で定めるものをいう。
    • 一 和歌山県紀伊日の御岬灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬に至る直線
    • 二 愛媛県佐田岬から大分県関崎灯台に至る直線
    • 三 山口県火ノ山下灯台から福岡県門司崎灯台に至る直線
    ※「政令」とは次に挙げる「瀬戸内海環境保全特別措置法施行令」のこと。
    ※西端は関門海峡の最狭部(東端に近い)である。関門海峡の大部分と洞海湾は一~三の範囲に含まれない。
    瀬戸内海環境保全特別措置法施行令 第1条
    • 一 (略)愛媛県高茂埼から大分県鶴御埼に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
    • 二 (略)山口県特牛灯台から同県角島通瀬埼に至る直線、同埼から福岡県妙見埼灯台に至る直線及び陸岸によつて囲まれた海面
    ※瀬戸内法の一~三の範囲に追加される。
    早吸瀬戸と関門海峡の外側のかなりの範囲が瀬戸内海に含まれる。
    海上交通安全法施行令 第1条
    紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒, 東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒, 東経134度44分58秒)まで引いた線及び佐田岬灯台(北緯33度20分35秒, 東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分, 東経131度54分8秒)まで引いた線
    ※西端は言及されていない。
    漁業法施行令 第27条
    • 一 和歌山県紀伊日ノ御埼灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬灯台に至る直線
    • 二 愛媛県佐田岬灯台から大分県関埼灯台に至る直線
    • 三 山口県火ノ山下潮流信号所から福岡県門司埼灯台に至る直線
    ※瀬戸内法の一~三とほとんど同じ。

    なお、このような法律上の海域設定とは別に、海域が最も狭くなる鳴門海峡明石海峡を瀬戸内海の東端と見ることもある。この用法は、両海峡や淡路島に関する記述で多い。この場合、大阪湾と紀淡海峡は瀬戸内海から除外され、紀淡海峡は太平洋に含めることもある。

    [編集] 主要な島

    瀬戸内海直島諸島から瀬戸大橋エリア空撮

    瀬戸内海には大小あわせて 3,000 もの島があり、無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する。

    主な瀬戸内海の島を以下に示す。

    [編集] 沿岸主要都市

    [編集]

    尾道・今治ルートの来島海峡大橋

    本州と四国を道路鉄道で結ぶ橋または道路として瀬戸内海上に本州四国連絡橋が架かり、以下の3ルートがある。

    [編集] 航路

    宮島フェリー

    [編集] 「縦断」と「横断」

    瀬戸内海北岸を自動車等で走行することを通常「縦断」すると言う。

    日本列島は南北に長いので、例えば北海道鹿児島間を陸路移動するような場合「縦断」とするのは至極当然のことである。だが中国地方は東西に長く伸びている。それでも日本列島全体としては南北に伸びているため、たとえ中国地方が東西方向に伸びていても、これは南北に伸びているとみなし、「縦断」とするのである。

    その一方で、海路を航行する場合は「横断」とするのが通例である。

    [編集] 歴史

    [編集] 先史時代

    1600万年前
    日本列島がユーラシア大陸から分離。古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していた。この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は備北層群と呼ばれている。
    1400万年まえから1000万年前
    二上山、室生、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。
    7万年前
    ウルム氷期始まる。現在は瀬戸内海である一帯にはステゴドンやナウマン象が住んでいた。また広島県の情島で、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。
    1万年前
    氷河期が終わり気温が上昇。海水面も上昇し、6000年前までに現在のような瀬戸内海が形成された。

    [編集] 古代

    住吉大社第一本宮
    鞆の浦の町並み
    厳島神社から見る瀬戸内海

    古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。そのことは魏志倭人伝の記述や日本書紀国産みの段でイザナミの産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。

    古代においては、摂津国住吉大社の管轄した古代港の住吉津を出発地とした遣隋使遣唐使の航路であったことから、瀬戸内海は、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。またこの頃既に鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。

    奈良時代には陸上の交通路(山陽道南海道)が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。

    平安時代中期は、嵯峨源氏渡辺綱を棟梁とする摂津国渡辺党が瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁となり、渡辺氏の庶流である肥前国松浦氏が九州の水軍松浦党の惣領となる。

    藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし(承平天慶の乱)、瀬戸内海は、純友の活動舞台となる。伊予国の警固使の橘遠保が純友を捕らえる。

    平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりした。

    [編集] 中世

    鎌倉時代から戦国時代にかけては、伊予国越智氏河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちが瀬戸内航路に勢力を張り始め、河野氏や村上氏らは海賊大将軍を名乗って海賊衆水軍)を組織し、瀬戸内航路を制御下においた。

    [編集] 近世

    豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力が排除され、回船商人らによる西廻り航路の一部として、瀬戸内海は流通の主役の務めを果たした。

    [編集] 近代

    明治時代以降は鉄道開通などの本州・四国内交通網の整備、本州・四国間に瀬戸大橋の開通に至って、以前より交通路としての重要性は薄れたが、平成に入っても無数の定期航路が存続している。また、環瀬戸内文化圏という観点から、瀬戸内海を文化交流の場としてとらえ直す試みも行われている。

    [編集] 瀬戸内海の観光

    源平合戦図屏風(河野美術館蔵)
    壇ノ浦を眺める公園に置かれた源義経の像
    石鎚山


    [編集] 歌枕の地

    古代から瀬戸内海は風光明媚な海として知られ、沿岸には『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』などに登場する歌枕が点在している(住吉難波須磨明石高砂布引生田)。

    [編集] 中世日本文学と瀬戸内海

    中世になると『伊勢物語』『土佐日記』『源氏物語』『山家集』などの文学作品が瀬戸内海を取り上げたことで、作中に登場する土地が名所となっていく。

    [編集] 寺社詣で

    庶民の観光旅行が一般化した近世には、『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などに登場する古戦場(屋島壇ノ浦牛窓藤戸など)が観光名所として注目されるようになる。また金比羅宮石鎚山住吉大社厳島神社宇佐八幡宮大山祇神社などへの参拝も盛んになる。瀬戸内海各地の名所は『諸国名所百景』などの浮世絵にも頻出する。さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする観光産業(旅籠茶屋、土産物屋など)が丸亀多度津下津井宮島などに成立し、繁栄を見せるようになった。

    またこの時期、朝鮮通信使鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されている。

    [編集] 近代観光のデスティネーションへ

    19世紀になると、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックユリシーズ・グラントなどの欧米人が来日し、近代的な「観光のまなざし」(この概念についてはジョン・アーリを参照のこと)によって瀬戸内海を再編していった。すなわち近世以前の瀬戸内海観光が文学作品を媒介とした「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝という形式を持っていたのに対し、欧米人は瀬戸内海各地で(当時)当たり前のように見られた風景(多島海、段々畑白砂青松、行き交う和船など)に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていった。言い換えるならば、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していったのである[3]

    更に1912年には、大阪と別府温泉の間を結ぶ、純粋に観光を目的とした定期航路が開設され、大人気となった。1934年には前述のように日本初の国立公園の一つとなる。

    [編集] バブル経済と乱開発

    1987年の「総合保養地域整備法」制定に伴う日本列島のリゾート開発ラッシュは瀬戸内海も例外とせず、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設された。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもあった。また、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発は中断され、開発中途で放棄された土地も発生した。

    [編集] 現在の瀬戸内海観光

    1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に指定された。また1999年に本四架橋が全て完成すると、尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとして注目を浴びるようになった。

    [編集] 産業

    [編集] 漁業

    [編集] 江戸以前の漁業

    一本釣り漁で栄えた沖家室島

    瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場となってきた。弥生時代には既にタコツボによるタコ漁が行われていたことも、出土物によって明らかになっている。

    江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網船引き網漁が盛んとなった。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていた。これらの漁法は瀬戸内海にとどまらず、房総半島などにも伝播した。また瀬戸内海の内部でも、紀州で考案されたイワシの船引き網漁法が真鍋島宇和島安芸草津など各地に伝播したことが知られている。

    大物を狙う一本釣り漁も江戸時代に発達した漁法である。これは主に潮流の早い瀬戸を中心に行われた漁法で、鯛、ハマチ、カレイ、サワラなどを対象とした。一本釣りの発達を促したのは、中国から輸入されるようになった天然のテグスの存在である。これを最初に一本釣り漁に用いたのは、現在の鳴門市にある堂浦の漁民であったが、この漁法が17世紀後半に現在の周防大島町にある沖家室島に伝播し、沖家室島は瀬戸内海有数の一本釣り漁の基地として栄えた。現在も大物釣り用の釣り針の基本的なデザインである「かむろ針」は沖家室島で考案されたものである。その他、佐賀関音戸、三津浜、牛窓、雑賀崎などが一本釣り漁で有名な漁村である。

    こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却された。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれた。広島の牡蠣も江戸時代には関西に広く流通していた。

    [編集] 瀬戸内海の漁民の国外出漁

    明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて国外に出漁する事例が増えていった。山口県や広島県の一本釣り漁師たちは台湾ハワイなどに渡り、打瀬網を使う漁民はフィリピンに出漁した。森本孝は沖家室島の漁民がハワイの漁業の屋台骨を担った状況を明らかにしている[4]。また国内でも、周防大島の漁民が対馬に集落を建設して移住した事例が宮本常一によって報告されている[5]

    [編集] 家船

    瀬戸内海は、20世紀後半まで家船(えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られている。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことである[6]。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かった。[7]。彼らの出自については、豊臣秀吉によって解体された村上水軍の末裔なのではないかとの説もある[8]

    [編集] 乱獲と漁業資源の減少

    第二次大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達した。しかしその後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況である。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊された為に激減しており、ハマグリはほぼ絶滅となっている。

    カキ、ブリ、タイ、ワカメ、ノリなどは養殖も盛んに行われている。広島でのカキの養殖は室町時代までさかのぼる。

    [編集] ブランド品

    佐賀関で上がる「関アジ」「関サバ」、明石で揚がる「明石鯛」「明石蛸」、鳴門のタイ、日出の「城下カレイ」、下関のトラフグなど、全国的なブランド品となっている品目も瀬戸内海には存在している。

    [編集] 農業

    [編集] 段々畑

    瀬戸内海に浮かぶ離島は耕作可能な平地も少ないことから、住民たちは山を開墾して段々畑を作ることが多かった。しかしこうして開墾された段々畑は土壌が痩せていることが多かった為、農民たちは下肥や海藻を人力で運び上げて施肥し、土壌を改良していった。一般に、開墾してからまともな作物が収穫出来るようになるまでに10年かかるとされた。

    [編集] 出作

    島内の山を全て開墾しつくした後には、近くにある島に渡ってそこで開墾を行うこともあった。こうして別の島に農地を持つことを「出作」「出作り「渡り作」などと呼んだ。農民たちは出作用の小さな木造船(農船)を手に入れ、それで農地を持つ島まで行き来していた。

    [編集] 柑橘栽培

    このようにして開墾された段々畑は、第二次大戦後、多くが柑橘類の栽培に転用された。日照と水はけに優れた段々畑は、糖度の高い柑橘の栽培には適していた。しかし段々畑での農業には非常に手間がかかることから、近年、耕作放棄地が増加しつつある。

    [編集] 綿花栽培

    瀬戸内海沿岸の気候は綿花栽培にも向いていた為、江戸期には各地で綿花栽培が行われた。特に綿花栽培が盛んだったのは河内地方、播磨地方、岡山平野、福山周辺、広島周辺、観音寺周辺などである。しかし明治期に海外産の良質な綿が輸入されたことで、これらの地域の綿花栽培は衰退した。

    [編集] 除虫菊栽培

    18世紀末に日本に移入されたシロバナムシヨケギク(除虫菊)は、20世紀に入ると広島県で盛んに栽培されるようになり、島嶼部も含めて第二次大戦後まで除虫菊栽培は農業の中心となった。

    [編集] 製塩業

    瀬戸内海沿岸は古代より製塩が盛んな地域である。弥生期には吉備地方で土器に海水を入れて煮詰める製塩が始まり、奈良期には砂浜を使う「塩尻法」へと移行する。中世にはこれが揚浜式塩田に移行、更に17世紀前半には姫路藩で入浜式塩田が使用されるようになり、瀬戸内海は製塩の中心地となる。この時期の瀬戸内海産の塩を「十州塩」とも呼んだ。これは播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予の10国で生産された塩という意味である。

    こうした製塩業は1971年に一時全て途絶えたが、2002年に塩の販売が完全自由化されると、仙酔島などで小規模ながら製塩業が復活した。

    [編集] 製塩業と白砂青松

    製塩業は大量の燃料を消費する産業である。瀬戸内海沿岸は製塩が盛んであったため、燃料としての木材を供給した里山は次々にはげ山となっていった(詳しくは里山を参照)。瀬戸内海に白砂青松が多かった理由の一つとして、こうしてはげ山となった里山から花崗岩が浸食により流出し、川を流下して瀬戸内海に入り「白砂」となったという指摘がある。

    [編集] 工業

    太平洋ベルト工業地域の一角を担う瀬戸内工業地域を形成し、全工業地域総出荷額のおよそ9%を占める。西部は北九州工業地帯を形成し、東部は三大工業地帯の一つである阪神工業地帯を形成している。

    また海の中の離島であることを生かし、亜硫酸ガスによる煙害で批判を浴びていた精錬業が瀬戸内海に進出した。三菱マテリアル直島住友金属鉱山四阪島など。

    [編集] 環境問題

    [編集] 赤潮

    昭和45年から昭和51年にかけて赤潮の発生件数は約80件から約300件と上昇し、その後徐々にではあるが減少傾向にあるものの平成14年の発生件数は約100件が確認されており、同年の発生海域は大阪湾・紀伊水道・播磨灘の淡路島の対岸域・燧灘の愛媛県域・広島湾・防予諸島・周防灘等である。赤潮の発生に伴ない養殖のハマチ・タイ・真牡蠣の他、天然魚介類の漁業被害が起きている。

    1992年(平成4年)8月27日環境庁告示第67号により、海水中の窒素や燐が海洋プランクトンに対して影響を与え、著しく増殖を生ずる畏れのある海域として閉鎖性海域として指定され、赤潮を初めとして2004年と2005年には発生原因が不明の藻により底引き網漁などの漁獲に打撃を与えている。

    [編集] 脚注

    1. ^ 例えば2007年5月に瀬戸内海を通過したハワイの航海カヌー「ホクレア」のクルーは、公式報告の中で次のように瀬戸内海の美を表現している。「瀬戸内海の風景はまるで夢の中のようでした。柔らかく丸みを帯び緑に覆われた島を、私たちは無数に通り過ぎました。島々を包むように波が立っています。こんな航海をこそ私は夢見ていたのです。もちろん私は福岡も楽しみましたが、この大自然の美は別格です。いや、今日のこの航海の感動は、単なる大自然の美という言葉では言い表せないでしょう。」ホクレア号航海ブログ「5月20日<祝島と大島」より抜粋
    2. ^ 『瀬戸内海事典』南々社、2007年
    3. ^ 西田正憲『瀬戸内海の発見』中央公論新社、1999年
    4. ^ 森本他『沖家室瀬戸内海の釣漁の島』みずのわ出版、2006年
    5. ^ 宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫
    6. ^ 同種の船はフィリピンやインドネシアでも見られる。
    7. ^ 羽原又吉『漂海民』岩波書店、1963/2002年
    8. ^ 沖浦和光『瀬戸内の民族誌』岩波書店、1998年

    [編集] 関連項目

    [編集] 外部リンク

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