二本松の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二本松の戦い(にほんまつのたたかい)は、戊辰戦争における東北での戦いの一つ。
目次 |
[編集] 概要
慶応4年(1868年)3月、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、仙台藩をはじめとする奥羽諸藩に会津藩の討伐を命じた。奥羽諸藩は会津藩の窮状に同情を寄せ、奥羽全体に関わる問題と捉えた。閏4月11日に白石城に参集し「諸藩重臣副嘆願書」を副えて、会津藩の「謝罪嘆願書」を取り次ぐも、翌12日、新庄に駐在する総督府参謀世良修蔵にすげなく退けられた。この動きに対し世良は19日、新庄に駐在する大山格之助参謀に宛てて、「奥羽諸藩に会津討伐の意志がないこと、したがって奥羽皆敵と見て逆撃の大策としたい」旨の密書を送っていた。こうした世良の不遜な態度に憤慨した仙台藩士姉歯武之進・赤坂幸太夫らが30日、福島・北町の旅館に泊まっていた世良を暗殺するに至る。5月3日、仙台藩・米沢藩・秋田藩・盛岡藩・二本松藩など奥羽25藩による奥羽列藩同盟が結成され、政府軍に反旗を翻した。さらに北越の長岡藩・新発田藩など7藩が加わり、ここに奥羽越32藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
5月16日、白河口の戦いを皮切りに、海岸線の平潟から平、会津国境、北陸方面へと戦線は拡大する。諸藩は戦術の稚拙さと火力兵器の差によって各戦場で敗退し、退却か降伏を余儀なくされていった。7月に入ると秋田藩が同盟を離脱、白河方面では三春藩が政府軍へ寝返った。7月27日、政府軍は三春藩兵を案内役として本宮まで進軍する。
政府軍の侵攻が早いと判断した二本松城は防衛を固めたが、藩兵のほとんどが白河方面に出撃しており、城を守っていたのは少数の兵であった。家老丹羽一学は、藩主丹羽長国を米沢に逃がし、藩士の60歳以上の老人と12歳~18歳の少年を召集し二本松少年隊を編成した。砲術師範木村銃太郎を隊長とする同隊は、城下南方の大壇口の小高い丘で守備に就いた。29日早朝、まず東方の供中口が政府軍によって破られる。大壇口でも激しい戦いが展開されたが、少年隊士の殆どが戦死した。昼過ぎには丹羽一学が本丸に火を放ち自刃した。
戦死した少年隊士の墓は、二本松歴代藩主丹羽氏の菩提寺大隣寺にある。
[編集] 参考文献
- 今川徳三ほか編著『日本合戦事典』叢文社、1988年。
